食で人を繋げる~フードコーディネーター 中山咲子さん 【前編】

学生時代からフードコーディネーターの仕事を始め、20代で京都にカフェ「HACOBU KITCHEN」をオープンした中山咲子さん。中山さんが食の道を志すようになったのはきっかけは大学時代。その後、さまざまな出会いを経て、その想いは現実のものと。バイタリティあふれる中山さんに、これまでの歩みと、目標達成の秘訣を聞きました。インタビュー前編では、大学時代からアメリカ移住までを話してもらいました!

――大学ではデザインを勉強されていたそうですね?

中山 そうです。もともと絵を描くのが好きで……高校は愛知県の普通科に通っていたんですけど、学園祭で絵を描く仕事を任されたことがあって、私の絵を観て喜んでくれた人がいることがすごくうれしかったんです。それで京都造形大学のコミュニケーションデザインコースに入って。それが人と情報を繋げるデザインだったら何でもいいみたいな学部だったので1、2年生のときは写真とか映像とか“表現すること”についてあらゆる手法を覚えていったんですけど、2年生が修了した時点で学校を1年間休んで、アメリカに行くことにしたんです。

――どうしてアメリカに?

中山 お父さんが単身赴任でずっとアメリカ勤務をしていたんですよ。で、お母さんも子供の手が離れたからと一緒にアメリカに行ってて、お姉ちゃんも大学卒業後にアメリカの大学院に通っていて、それでいい機会だから私も留学しようかなと。

――なるほど。中山さんは現在、レシピ開発やケータリングなどを手掛けられていますが、いつから料理に興味が沸いてきたんですか?

中山 それがアメリカに行ってたときなんです。アメリカの学校って例えば1つのセメスター(欧米の2学期制)が終わると“みんなでパーティーしよう!”となることが多いんですね。“1人1品ずつ料理を持ってきてね”みたいな感じで、みんなで持ち寄ってポットラックパーティというのを開くんですけど、それがすごい楽しくって。私はアメリカで家族と一緒に暮らしていたので、自分の家でもパーティを開く機会が割とあったんですけど、料理好きなお母さんが頑張ってテーブルを形作っているのを近くで見ていて“こういう空間っていいな”と。国籍も年齢も性別も関係なく、食事を介して人と人がコミュニケーションできる感覚があったというか。で、日本に戻って大学3年生でゼミに入って、自分の表現……例えばウェブデザインやりますとか、写真頑張りますとか、アニメーションやりますとか決めていくんですけど、私はアメリカでの経験から“食べ物をシェアする”ということをやっていきたいなと思って。その頃ちょうど、アメリカでケータリングみたいなビジネスが出てきた時で、日本ではまだ宅配サービスが普及してるくらいの感じだったんですね。それを自分でやろうと。

――それまで料理の経験も結構あったんですか?

中山 それが自分の分くらいしか作ったことがなくて……最初は大学を辞めて料理学校とか栄養学科のある大学に行こうかなと思ったけど、せっかく入ったしなと。それで造形大学に通いつつ、せっかく京都にいるし、ちゃんと日本料理について学びたいと思って祇園の料亭にアルバイトで入って、そこの料亭がやってる料理教室のアシスタントを半年ぐらいやって筍のアク抜き処理とかを覚えていったんです。

――なるほど。ちなみに、造形大学の中に食事に関するゼミがあったんですか?

中山 いえ、それはなかったので、ゼミは仲の良い先生がやってるウェブデザインのコースに入ったんですよ。その先生にずっと“食べ物で何かやりたい”みたいなことを言ってたんですけど、授業で『はてなブログ』の人たちが特別ゲストで来ることがあって。当時はてなが京都に本社を移した時で、ちょうどまかないを作る人を探しているタイミングだったんですね。そこからゼミの先生が私のことを『はてなブログ』の人たちに紹介してくれて、まかないを担当することになったんです。

――いきなり会社のまかないを作ることの不安などはなかったんですか?

中山 それがすごく楽しくて! 料理の知識は結構ゼロに等しかったんですけど、だからこそ逆にいろいろ試せるというか、もう作りたいものがたくさんあったんですよ。20人、30人分くらいをバーっと作って、やりたいと思ったアイデアで思い切り試して。『はてなブログ』で、ちょっと筋トレみたいな感じで、毎日、毎日作って……すごく環境もいいし、ずっと続けたいなと思っていて、実際に大学卒業後も契約社員みたいな感じで9年くらい働いてました。あと、『はてなブログ』と並行して大学の先生のケータリングをやらせてもらっていて。それはもうちょっとクリエイティブな感じで、コンセプトに合わせて食事を考えて、デザインが入ったような食事を作っていたんですけど、それもすごい楽しかったですね。

――そしてその後は、友人とカフェ『ハコブキッチン』を始められたんですよね?

中山 『ハコブキッチン』は、実はカフェにするつもりは全くなかったんです。もともとケータリングを一番やりたいと思っていて、パーティなどの機会で“食事を出したい、誰かをおもてなしたい”と思った人に対して、私はデザイナーのような感覚で形にして作って出すというのをできる範囲でやりたいなと思って。

――なるほど。実際に中山さんはケータリングのプロとして、さまざまな機会で料理を提供することになっていくわけですが、どういう風にして仕事を獲得していったんですか?

中山 仕事に関しては一度も売り込んだことがなくて。一回、何かの機会で実際にケータリングをしたら……ケータリングが出る場所に来る方ってもともと交流が好きな人たちだから、“今度うちもこういうのをやるんで、お願いできますか”みたいな感じで仕事が繋がっていくんですね。あとは時代もあったのかなと。

――時代ですか?

中山 はい。当時、日本で“ケータリング”が始まったばかりで。私はアメリカで日本より先に、そういう仕事が始まってるのを体感できたのも大きかったのかなと。すごくいいタイミングだったのかもしれないなと思うんですよ。

後編】へ続きます。

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