愛媛県・松山市の道後温泉のほど近くにあるゲストハウス『じょじょに』。読書好きなオーナー・高木一行さんが集めた蔵書がズラリと並ぶ談話室には、旅好きな宿泊者が夜な夜な集い、交流を行っている。交流の輪の中心にいる高木さんは、会話の流れからその場に置いてある本を手に取り、ゲストに合わせて柔軟に話題を提供。8年前にオープンして以来、“ここでしか体験できない対話ができる”と、じょじょにを訪れる旅行者は後を絶たない。そんなゲストハウス『じょじょに』が誕生するまでには、どんな物語があったのか? オーナーの高木さんに話を聞いた。
――高木さんはもともとベンチャー企業の経営企画室・経理財務部で勤務されていたんですよね?
高木 そうですね。東京にある保険代理店のコールセンター事業をやっているベンチャー企業に5年ほど勤めていました。
――その会社を辞めて14年秋に愛媛で『じょじょに』をオープンされたわけですけど、“会計”から“ゲストハウス”という違う世界へ転じることになったきっかけは何かあったんでしょうか?
高木 そこに至るまではいろんなターニングポイントがあるので話が長くなるんですが(笑)。まず僕は18歳の時に進学で地元の広島から松山に来たんですね。大学の学部が経営系でしたし、当時から自分で家計簿を付けるほど数字が好きだったので卒業後はそのまま松山の会計事務所に就職したんですが、その事務所が繁忙期は朝帰りになることもザラにあるようなブラック企業で(苦笑)。昔ながらの厳しい丁稚制度をとる会社だったので、会計にまつわる知識はひと通り習得できたんですけど精神的にキツくて。で、僕は本を読むことが好きなんですけど、その中で沢木耕太郎著作の『深夜特急』の文庫版1巻の巻末対談に出てきた“旅をするなら26歳がいい”という話が頭の片隅にずっとあって……会計事務所のブラックな労働環境から逃げたい気持ちもありましたし、実際に、26歳の時に会社を辞めて世界放浪の旅へ出ることにして。
――思い切った決断ですね。最初のターニングポイントですね。
高木 “自分の目で世界を見るんだ!”という強い気持ちで国外に飛び出しました。最初はワーキングホリデーのビザを取得してオーストラリアで1年働いて過ごして、後の2年でインドやタイなど20カ国を旅して回って……その中でインド有数の観光地=アーグラという街に行った時のことが強く印象に残っていて。
――アーグラというと、インド・イスラム文化の代表的建築であるタージ・マハルがある街ですよね?
高木 ですね。だけど僕、アーグラでタージ・マハルを観に行かなかったんですよ。タージ・マハルのすぐ傍にあるゲストハウスに泊まっていたのに。
――へー! それはなんでまた?
高木 そのゲストハウスで知り合った人と意気投合して話が盛り上がってしまって、観に行く時間が無かったんです(笑)。宿のテラスから遠くにタージ・マハルを眺めながら、夕方から朝まで喋り続けてましたね。
――でもそれって、なんだか贅沢な過ごし方ですね。
高木 うん、すごく贅沢な時間でした。と同時に、“自分は観光地や世界遺産が観たくて旅をしていたわけじゃなかったんだな”と気付いたんですよ。“旅そのもの以上に、人と対話するのが好きなのかもしれないな”と。実際に3年の世界放浪の中でしていたことと言えば、本を読んだり、安宿で知り合った旅人と朝までチャイやコーヒーを飲みながら話していただけですからね。ほら(と言いながら、世界放浪の際の写真を見せてくれる)。
――わー、本当にいろんな人に囲まれて楽しげに話している写真ばかりですね。
高木 そうなんですよ……少し話が脱線するんですけど、僕は大学1年の冬から毎日路上で弾き語りライブをしていたんですね。決してプロ志向だったわけではなくて、ただその“場”が楽しくて雪が降ろうが何があろうが、毎日ストリートライブをして。自分が弾くギターや歌を媒介にして一期一会のコミュニケーションが生まれることが楽しかったし、いろんな人とコミュニケーションを取る手段の一つとして路上ライブをやっていたんです。
――高木さんにとって“じょじょに”も、いろんな人とコミュニケーションを取る手段の一つという感覚があるんでしょうか? 『じょじょに 旅の記録帳』(ゲストハウスに置いてある宿帳。オープンからの6年で12冊、総レビュー数は700件を超えている)を先ほどパラパラ見せてもらったんですけど、“オーナーさんとの会話が楽しくて、気付いたら朝になってました”という書き込みが多いなと感じたんですけど。
高木 一期一会の出会いや会話を大切にしたいなという気持ちは強いですね。談話室には僕が趣味で集めた本がありますけど(壁中を本が埋め尽くすブックカフェのような空間の談話室。本の並びやセレクトの随所に高木さんの拘りを感じる)、それもゲストの方たちとコミュニケーションを形作るきっかけの一つになってくれたらという想いで置いているので。あと実は僕、もともと出不精なんですよ。
――え! そうなんですか? 世界放浪をしたり、路上ライブをやったり、アクティブな方なのかなと思っていました(笑)。
高木 いえ、根っこの部分は家で本を読んでいられたら満足という性格なので(笑)。その点、ゲストハウスって旅人の皆さんが向こうからやって来てくれるじゃないですか? 待っていれば老若男女いろんな人と出会えて刺激をもらえますし、こんなに良い働き方はないなと思いますね。
――うんうん。ちなみに、20カ国を回った世界放浪の旅を3年で終えた後、すぐにゲストハウスを始めたわけでは無いんですよね?
高木 そうですね。当時は“自分でゲストハウスを経営する”という思考は一切無かったです。30歳の時に日本へ帰ってきたんですけど、ちょうどリーマンショックがあった翌年だったから地方都市では就職先がほとんど無くて。それで“東京でも行くか”と上京して、板橋のシェアハウスに住みながら就職先を探したんですけど、空白の3年間がある僕を雇ってくれる会社なんて無くて書類選考で落ちまくって……100社ほど応募する中で数社だけ面接をしてくれたんです。
――その中にインタビュー冒頭で話していた保険代理店のコールセンター業務を担うベンチャー企業があったと。
高木 まさに。後の直属の上司となる一歳年上のCFO(最高財務責任者)が面接してくれて、世界を3年放浪していた経歴を面白がってもらえて採用されました。従業員が400名ほどいた右肩上がりの会社だったんですけど、社長は僕と同い歳で平均年齢が20代の若い会社で。最初のうちはやりがいもあったし楽しかったんですけど、5年働く中で次第に自分の仕事に対して疑問が生まれてきたんです。帳簿や管理会計データを見て自分が思うことと、会社の方針として監査法人や銀行などに対して言わなきゃいけないことって必ずしも一致するわけじゃないし、それが自分に嘘をついてるみたいでストレスが溜まっていって……そんな中で、東日本大震災が発生して“大きいシステムに依存せずに自分の生き方をちゃんと見つめよう”と思い始めたんですよ。
――そこでまたターミングポイントが訪れたわけですね。
高木 あと、もう一つ大きなきっかけがあるとすれば、高坂勝さんという方の著書『減速して生きる』との出会いも大きくて。著書の高坂さんはもともと一流デパートに勤めていて年収や成績もよかったんですけど、僕と同じように大きいシステムに疑問を感じて体調を壊し、29歳で仕事を辞めたそうなんですね。その後、車で日本を一周したりピースボートで世界を回った後に、池袋で『たまにはTSUKIでも眺めましょ』という小さなBARをオープンさせていたんです。で、僕は当時、池袋に会社があって家まで徒歩30分ほどの距離だったので、終電を逃した時は歩いて帰ってたんですけど、その帰り道に手作りっぽい店構えのBARがあって“面白そうな雰囲気だな”とは思ってたんですよ。で、ある時に『減速して生きる』を読んでいて“あれ?”と思って調べたら、そこが高坂さんのBARで。
――へー! そういう偶然ってあるんですね。
高木 僕も驚きました(笑)。それから“たまつき”(お店の愛称)の常連になっていくんですけど、そのお店には高坂さんの本を読んで共感した人や、大きなシステムに疑問を感じるお客さんが自然と集まっていて、高坂さんも常連に対して「悩んでるなら辞めちゃえば? どうして会社員を続けてるの?」みたいに言うわけですよ。僕もちょうど仕事を辞めようか悩んでいた時期だったので「辞めちゃえば?」とカジュアルに言われて(笑)。
――でも、その高坂さんの言葉がポン!と背中を押してくれて、独立する方向に心が傾いていったと?
高木 そうですね。と言っても、自分が独立して何ができるのかはまだ悩んでましたけどね。“たまつきのように6.6坪の小さなBARをするのはどうかな?”と思ったこともあったし、いろんな選択肢を考えていたんですけど、ある時、3年間の世界放浪中にインドのバラナシで出会った友達から電話があって。当時、彼は東京の居酒屋で店長をやってたんですけど、東日本大震災をきっかけに仕事を辞めて車で西日本を旅していたんですね。その旅の最中……2011年の3月末頃に電話をしてきて「今、山口県にいるんだけど、ここでゲストハウスやろうかなと思って。よかったら一緒にやらない?」と誘われて。
――それはまた、カジュアルな誘われ方ですね(笑)。
高木 そう(笑)。本当にいきなり誘われたので、すぐに断ったんですけど……ただ、“なるほど。ゲストハウスという選択肢もあるのか”と初めて思ったというか。その後、友人は山口県ではなくて兵庫の姫路でゲストハウスを11年7月に開業するんですけど、彼がブログでアップする立ち上げの経過やオープン後のゲストハウスの様子を見るうちに“こういう生き方もいいな”と思う気持ちが膨れ上がっていったんですね。で、Excelで事業計画を何パターンもシミュレーションして予算計画を慎重に立ててみたところ“自分でも何とかやれるかも”と思って、そこからは一気に動き始めて、休みがある毎に全国のゲストハウスに通って全部で100軒ほど回りましたね。
――その数ある候補の中から、最終的に松山でオープンすることにしたのはどうしてだったんでしょうか?
高木 正直に言うと松山は最初、選択肢になかったんですけど、大学時代からの友人のトンタロウ君の存在が大きいですね。トンタロウ君とは卒業後、音信不通になっていたんですけど、8年ぶりに連絡を取るきっかけがたまたまあったんですね。“懐かしいな”と思いつつ、その頃ちょうどゲストハウス巡りをしていた時だったのでリサーチも兼ねて“久しぶりに松山へ行ってみようかな”と思って。本当に気軽な気持ちで3泊4日の旅行に来たんですけど、お盆シーズンだったので泊まりたかったゲストハウスがどこも満室で、トンタロウ君の家に泊めてもらうことになったんです。その時に彼が「学生時代、高木君にすごく影響を受けた」と初めて話してくれて。「もう会えないと思っていた、人生観に影響を与えた先輩が松山に来てくれるし、僕の仲間にも紹介して高木君の話を聞かせてあげたい」とまで言ってくれて、その3日間で20人もの友人に会わせてくれて……その気持ちがすごく嬉しくて。そこで「見ず知らずの土地じゃなくて、トンタロウ君や彼の仲間たちがいる松山で始めるのもいいな。土地勘もあるし、道後温泉もあるし」と思ったんですよね。松山を候補地に入れた瞬間、すべてのピースがハマる感覚があったし、“ここしかない!”と。オープン直後、まだお客さんが少なかった時期にもトンタロウ君や、彼経由で繋がった友人たちが毎日のように遊びに来てくれて盛り上げてくれましたし、僕が一人で松山以外の土地で始めていたら絶対うまくいってなかっただろうなと思うので、本当にいろんな出会いに感謝していますね。
――さて、じょじょにを開業してから6年が経過したわけですけど、これまでに“アーティスト・イン・レジデンス”や読書会にご飯会、展示会など、実にさまざまな催しを実施してきましたね。
高木 本当にいろいろやりました。機会があれば、それらの催しを何かにまとめて紹介したいなと思っているんですけどね。ちなみに僕自身はさっきも話した通り、出不精だし、もともと“石橋を叩いて渡るタイプ”なんですね。安定した仕事を辞めて世界放浪の旅に出たり、ゲストハウスを起業したりしたので、ギャンブラー的な性格だと勘違いされることも多いんですけど、実際には臆病者なので綿密に事業計画を立てて、シビアに数字を見ながら運営してきたんです。ただ、その中でゲストハウスという場所を通じて、いろんな職業の方や興味深い経験を持った人と知り合えて……出張料理人の方が宿泊された時は急遽、談話室で1日居酒屋を開催したこともありましたし、“欠け佛についてのトークショー”やマジックショーなんかを開いたりもして……“こんなに面白い人がいるんだ”と思うと、つい何か一緒にできないかな?と模索したくなるんですよね。サラリーマン時代では絶対に経験できない日々が繰り返されていて、そうやって毎日何かしらの刺激を受けながら、その刺激によって自分が変わっていくのを感じられるのも楽しいなと。ゲストハウスをやる醍醐味って、そういうところにあるんじゃないかなと思うんですよ。もちろん日々の生活に対してや、ゲストハウスの経営状況に関して不満がゼロかと言えば嘘になりますけど、“ゲストハウスを始める前に自分が思い描いた世界が今、どれくらい実現しているか”を考えた時に“100%叶ってるな”と思えるんですよね。
――自分の人生を全面的に肯定できる生き方って、かけがえがないものですよね。
高木 そう思います。脱サラしてまで始めたことですから、楽しくなければ意味がないなと思うし、“僕自身が嫌だと思うことは絶対しない”という気持ちを大切にしながら6年間やってきて。自由な時間はたくさんあるし、お金も回っている。いろんな仲間やお客さんがゲストハウスに来てくれて、話が盛り上がったら時間を気にせず朝まで話していられる。本当にこんなに面白いなと感じる仕事はないなと思いますね。